ショパンのピアノ/ Le piano de Chopin
先日、パリ在住の楽器製作者のアトリエへ行き、ショパンの愛用していたピアノメーカー・プレイエル(Pleyel)の楽器を見せてもらいました。
今でも、フランスではアンティーク市や家族に代々受け継がれた楽器が多く存在します。
ショパンは19歳の時に祖国ポーランドを離れ、ウィーン経由で芸術の盛んなパリに来て活躍し、死ぬまで祖国の土を踏むことはできませんでした。ウィーンでポーランドがロシアに侵略されたことを知り、革命エチュードが生まれたのはこの頃と言われています。
不安を胸に、繊細な感性を持った才能豊かなショパンは、パリに来てピアノ曲を集中的に作曲し始めます。
そして21歳の時に今でも存在しているプレイエルホール(Salle Pleyel:最近修復工事を終え、モダンな会場となり2006年に再びオープンした。)にてピアノ協奏曲を演奏し、デビューし一躍パリの人たちの間で人気になります。
また、優れたピアニストとして社交界の中心であるサロンで有名になって行きました。
当時は、大きなコンサート会場での演奏会も沢山あったようで、多くのピアノ曲を残したリストとショパンは交流がありましたが、ショパンはリストに、
君はコンサート会場で弾く為に生まれてきたようなものだが、私は緊張してしまうのでサロンの方が好きだと言ったそうです。
また、洗練されたセンスや教養豊かなショパンの雰囲気、謙虚な態度はパリの上流階級の人たちに好印象を与え、ショパンのロマンティックなピアノ曲は多くの人を魅了しました。
リストの紹介でジョルジュ・サンドはサロンで、ショパンと出会いましたが、男装をしている一風変わったサンドのことをショパンは好ましく思いませんでした。
ショパンは友達への手紙の中でこう書いています。
「あれでも女なのだろうか。疑いたくなるね。」
「感じの良い顔とは思えず、全然気に入りませんでした。彼女には、どこか近づきたくない雰囲気があります。」
しかし、その後ショパンとサンドの個性の違いが互いに興味を惹いていったのか、9年間という長い時間を共にするのでした。
サンドは病弱であったショパンの看護をし、バカンスには彼女の避暑地であるコルシカ島のノアンの家にショパンを連れて行き、ショパンは作曲に集中することができました。24のプレリュードを始め多くの名曲がノアンの家で作曲されましたが、そのピアノが、プレイエルのピアニーノです。
今の、アップライトピアノの原型ですが、とてもまろやかな音がします。